[.風景画

1.富士

 日本を形作った神々は、 長い年月をかけて、高い空から見下ろしながら、美しい一画を作り上げられた。それが富士と五湖の周辺である。南側には白砂西松の海岸を配して、富士山の裾野をより広く見せ、東側から北、さらに南側に山をめぐらせ、五湖の水の流れ出るのを防いでいる。そして、中腹以上は気高く雪で化粧させ、適当に雲をあしらって高く見せている。
 描かれたのは鎌倉時代から。江戸時代には、人々の生活に浸透し、絵にもよく登場するようになった。「遠く見てよし近く見てよし富士の山」といわれるように、どこから見ても美しい。

2.松島

 日本三景の一つ。宮城県中部、仙台湾の支湾、松島湾と沿岸一帯をいう。松島丘陵の南東部が沈下して内湾を作り、山頂、尾根が島や岬となって点在する。侵食で奇観を呈する島も多い。

3.上高地

 長野県南安曇郡安曇村。穂高岳、焼岳、霞沢岳などの高山に囲まれた小盆地。
 海抜1500mで、亜高山帯の静寂な美と比類まれな山の品位があって、北アルプスの中心ともいえる。神聖な谷あいの秘境で、「神河内」とも書かれるが、古書は「上河内」が多く、上高地となった。

大正池

 1915年、噴火した焼岳の泥流でできた、梓川のせき止め湖。0.1平方キロメートル。深さ6m、長さ1540m、幅257mあったが、上流からの土砂で、大きさが三分の一、貯水量は五分の一になった。
 当時の名残をとどめる枯れた大木が林立した珍しい池で、林から焼岳の噴煙や残雪の穂高だけが望まれ、自然の妙に喚声を洩らさずにはいられない。

4.安曇野

 松本盆地の北西側、北アルプス山麓に広がる扇状平野。古代、出雲系の豪族安曇連(あずみのむらじ)が植民したので、今も南北安曇郡の地名がある。信州の穀倉地帯。

5.斑鳩の里

 奈良盆地の西北にあり、昔、大和川を利用して難波へ通じる交通の要所であった。
 601年、聖徳太子が法隆寺を建てられた、日本最古の仏都である。明治政府は、推古美術の殿堂として保護した。その頃始まった法隆寺研究は、まだ定説がない。
 法隆寺は、日本書紀に「670年、一屋も余すところなく焼亡した」と記される。昭和の大修理は、聖徳太子の創築として仰ぎたいという国民感情もあってなされた。
 聖徳太子以来1300年の歳月が流れたが、今も平和な農村のたたずまいがある。最も古い寺々があり、白壁の民家、松の木、畦道がある。自然の古美術館であり、絶好の散歩道でもある。刈田と藁塚の間を歩く小春日和の冬もよい。

斑鳩の春

 春の野辺といえば奈良盆地が代表である。日本文化が起こり、今も残るので、この野原が春になると人を郷愁に導く。
 北には山城の境をなす奈良山があり、南吉野の山が霞んでいる。東は大和高原があり、西は河内との境をなす生駒山、金剛山地が連なる。ここに来ると春が輝く。麦畑の緑、菜の花の黄金色、桃畑の紅色。池や田圃の水が光り、飛鳥時代の塔が見えたり、雲雀の声が聞こえる。路傍には、レンゲ、スミレ、天人唐草が昔のままに咲き、歌人の心を悲しませる。

斑鳩の秋

 「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の詩情そのままの田園風景がある。緩やかに傾斜する台地に、矢田丘陵を背景として木の葉隠れに見える五重塔と白壁の集落がかもし出す景観は、展雅で明るく、天平の昔を逍遥する。

6.日の出と海波

 正月に掛ける。日本海側では、結納などお祝いの時、「蓬莱山」の代用とされる。

波濤

 哮吼喧関、白湧き碧飜る。又は雲、雨となる、激浪怒濤は壮観で、茫として水波の緩く動く時は精美の極といわれ、古来より絵に多く描かれている。
 葛飾北斎は、風を起こす波、淺き水、巻く波、滝、細工波、大波、川、打合せの波、海、高い波、うちまわす波、とう波、さざ波などを描き分けた。

7.瀑布

 轟きと大量の水の落ちる様子は壮観で、雄大であり、昔から描かれている。

\.故事・伝記

1.三保の松原

 富士山の眺望に優れる名勝。静岡県清水市三保半島にある。清水港を抱くように発達した分岐砂嘴(し)で、砂丘に松林が続く。御穂神社や、その東南には羽衣伝説にまつわる<羽衣の松>がある。

羽衣

 天女が羽衣を奪われて人間と結ばれたが、羽衣を取り戻して天上に立ち帰ったという伝説、昔話。松原に天人は、昔から画題にされる。
 三保の松原が有名だが、他にも、天女が羽衣を掛けたといわれる羽衣松や羽衣石のある土地がある。多くの所では、天女は天に帰ったというが、天に帰らずに神に祭られた所もある。男が後を追い、巡り会ったとする所もある。中国地方以南では、二つの星になって七月七日の夜に会うといい、七夕と結びつけられている。一族の祖と関連させることもある。

2.高砂

 播磨灘に面した加古川河口で、松の名所である。
 「高砂や、此浦舟に帆をあげて」と、謡曲が結婚式でうたわれる。紀貫之の『古今集』の序文に「高砂、住之江の松も相生いのように覚え」とある。また、能の代表にもなっている。いずれも、歌道に寄せて君が代を寿いだものである。
 絵には、熊手を持った尉と箒を持つ姥とが落葉を掻くのを、相生いの松を背景に描く。
 掛軸はお祝いや結婚式で掛けられます。

3.一富士二鷹三茄子

 夢、特に初夢に見ると縁起が良いとされるものを、順に並べてある。
 江戸時代からのことばで、謂われは様々あるが、将軍家に縁深い駿河と関わるものが多い。
富士、鷹、(早生)茄子の名産を並べたとするもの、駿河で高いものを示すとするものもある。後者では、「鷹」は足高(愛鷹)山の俗称、「茄子」は初ナスの値段である。
 一説には、徳川家康が戦いのため駿府に来た時、または鷹野に出た時、富士山が高大にそびえ、鷹が獲物をつかみ取るのを見て武運を感じ、茄子が道をはさんで連なるのを見て、「成す」「無駄花がない」のは縁起がよいと思ったからという。

4.家康遺訓

・人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
・不自由を常と思へば不足なし。
・心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。
・堪忍は無事長久の基(もとい)。
・怒りは敵と思へ。
・勝つ事ばかり知りて負ける事を知らざれば、害その身に至る。
・己を責めて人を責むるな。
・及ばざるは過ぎたるに勝れり。人は唯身の程を知れ。

5.俳句

草の戸も住み替る代ぞひなの家  芭蕉 『奥の細道』
 わびしい草庵も、自分の後に人が移り住んで、雛祭りの衣、自分のような世捨て人とは違って雛を飾った家になっていることだ。

旅人と我が名よばれん初しぐれ  芭蕉 『笈の小文』
 これから旅に出ると、「旅人」と呼ばれる身の上となる。おりから初しぐれの降る季節(冬)で、濡れながら旅をし、旅人と呼ばれるのは、自分の気持ちにふさわしく、本懐なことだ。

我が物と思えば軽し笠の雪
 自分の利益となる負担であれば、それほど苦痛は感じないことをいう。

].人物画

1.聖徳太子

 574〜622年。飛鳥時代の為政者。用命天皇の皇子。幼少時代から仏教、儒教を学んだ。推古天皇の即位とともに摂政となり、仏教を基にした政治をした。仏教の知識は『三教義疏』に著され、政治理念は「十七条憲法」に示されている。法隆寺などを建立する一方、大陸へ留学生を派遣して新しい文化の基礎を築いた。
 平安時代から、仏教各派が自宗と太子を結びつけ、彫刻や絵画に表した。後には、日本の釈迦として信仰され、種類も多く作られた。
 一生を、代表する三つに分けられる。
1)二歳の無南仏像  : 東を向き南無仏と唱えて合唱したら、手から舎利が出たという。
2)十六歳の孝養像  : 用命天皇の病気平癒を祈った。
3)三十二歳の摂政像 : 冠位十二階を制定したとき。位冠姿。
 他に、八歳の童子像、二十七歳の馬上像、童子を従えた像、勝鬘教を講ずる群像がある。特殊なものでは、室町時代以降、大工のお守りとなった、曲尺を持った像がある。

2.菅公(菅原道真)

 平安時代の学者、文人、政治家。儒学の巨頭で、教育の祖といわれる。845〜903年。祖父古人は、桓武天皇の侍読。
 十八歳で文章生(もんじょうしょう)試験に合格し、出世が順調だった。 阿衡(あこう)事件で処罰された学者を弁護したことで宇多(うだ)天皇に信任され、政治に参画することになった。
 901年正月、従二位に任ぜられたが、藤原一族の陰謀により、二十日余りで左遷された。宇多上皇は何も知らされず、左遷発表後救済に奔走したが、藤原菅根(すがね)に妨げられ、二月一日、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
と詠み、太宰府へ護送された。詩作で紛したが、望郷の思いにかられながら、五十九歳で病没した。
 菅公が梅を好んだことから、掛軸の表具には、一文字に梅鉢の柄を使う。

]T.節句画

1.

 三月節句に飾る。掛軸をかけることもある。雄雛は束帯、女雛は十二単を着け、雲上にあるように描くのが多いが、時代や土地によって様々である。
 桃の花や白酒、菱餅を供える雛祭りは公家から武家を経て庶民層に広がったものだが、室町時代に人形に胡粉を塗る技術が中国から入って普及した。

2.武者

 五月節句、端午の節句に菖蒲や蓬を軒にさし、鯉のぼり、武者人形や、武者、鍾馗の掛軸を飾る。五月節句に限らず、無病息災を願い年中掛けられます。

目次に戻る
販売店に戻る